2004.10.2
イチローの大記録とバッティング理論

 年間258本の大リーグ新記録が達成された。
 イチローのバッティングの方法は単純である。
 我々は、バッターボックスに立った時、まず、二つの事を同時に行なうことになる。ストライクとボールを見極め、そして、強く振るということ。
 強く振らなければ硬式ボールは飛ばない、ということを軟式に親しんだ後、我々は最初に痛切に理解する。で、イチローは、早くから強く振るということを誠に潔く放棄した。つまり、イチローは、あらゆるボールに対して、とりあえずティクバックし、振りにゆく。強く振ろうなどとは考えていない。大きくティクバックすることで自然にバットの始動時に勢いが付くというだけ。ただし、これには瞬時にバットを停止できるボディバランスが必要で、彼はそれを幼い頃に既に身に付けたのだった。
 究極のバッティングとは、何時でもバットを止められるということなのだ。
 バッティングとは振らないことと見つけたり。
 ここに至ると、足を上げて勢い良く振りだし動作を行なうだけで、後はボールを見るだけで良い。打つと決めてから力強く振り始めるのとは大違いである。
 イチローは、シンプルなのである。強く振るのを諦め、常に振り出されてゆくバットを止める技術だけで大記録は生まれたのだった。
 しかし、新人当時、土井監督に干されたのは当然で、かつて、ああいう形は、例えば高校野球では長いこと否定されていたものだった。それは、長嶋茂雄のゴロ捕球後の横投げ、王貞治の一本足打法と同様に、コントロールされていない体の使い方の典型とされていたのだ。大きな始動動作はご法度だった。力の無い体力不足の者としてベチウォーマーに甘んじることを余儀なくされていた。
 ともあれ、現にイチローの空振りは、今でもバッターボックスの外に大きく飛び出してゆく。武道でいう「残心」の不動の姿勢とは大きく懸離れている。制御できない体である者を指揮官は嫌う。自らの体を制御出来ない者は、概ね、他者の制御下に入ることを好まないからである。
 イチローにあるのはバット・コントロールなどという気の利いたものではなく、単にそれを「止める」という技術。しかし、ワン・バウンドになるボール球を平気で振るのもイチローで、つまり、イチローの攻略法はストライクを放らないこと。ストライク・コースでなくても独自のヒッティング・ゾーンならば振りにゆくイチロー。かつて、例えば、ボールひとつ外に放れる小宮山投手はイチロー・キラーと呼ばれていた。
 勝手に振り出し動作だけを体にさせておいて、ボールを見るということだけに集中しているイチローは、つまり、大抵のバッターの半分の仕事で事を済ませているというわけ。
 あらゆる解説者は、イチローの言動に騙されている。


2004.8.22
バックマウント・チョーク、スピニング・チョーク、はたまた三角・逆十字か、パウンドか。

 
ヒクソン・グレイシーによるチョーク・スリーパーに始まった総合格闘技の歴史は、ここへきて、ノゲイラのスピニング系チョークを生み出し、いわゆるタックル殺しの必殺形となった。
 つまり、総合格闘技の歴史は、打撃系を封殺した後、レスラー系を潰したことになる。すると、残りは柔術のみかというと、そうでもなくて、サンボと柔道の出身者ヒョードルのパウンド、即ち、氷の拳が最強というのが多くの見方だつた。

 PRIDE GP ヘビー級トーナメントは、8月15日、さいたまスーパーアリーナで行なわれた。
 
ノゲイラが、まず、ハリトーノフに判定勝ち。一方、ヒョードルは、腕ひしぎ逆十字固めで小川直也に勝って、決勝戦は、大方の予想通りになったのだった。で、これが、偶然のバッティングによるノー・コンテスト。グランドに横たわるノゲイラに対し、頭からダイビングを試みて、ヒョードルは、眼の上をパックリと割った。興行的に見れば、この頂上決戦の結末は大成功で、決着が付かずに次回に持ち越し。次回も大入りが期待されるというわけである。まずは、目出度し、目出度し。


2004.4.25
必勝法は後の先か、あるいは、先制攻撃か

 相手のパンチを誘い出してのカウンターか、または先制ジャブか、という問題がある。
 日本流か、西欧流か、という問題でもあると考えると、意外に根が深い。
 と、、思っていたら、イスラエルとパレスチナを隔てる「分離壁」(東エルサレムと西岸の村アブディスとの境界)もありか、と。パレスチナ人による自爆テロ犯の侵入を防ぐという目的のこの壁は、高さ8メートルのコンクリート壁と3メートルのフェンスからなり、全長約650キロメートル。ヨルダン川西岸を囲む予定ルートは、2002年6月に工事が始まった。ベルリンの壁が、高さ、平均3.6メートル、全長155キロメートルだったことを考えると、これが如何に大規模なプロジェクトかが知れよう。
 ただ、残念ながら、「分離壁」そのものに反対する自爆テロも頻発していて、思惑通りのテロ撲滅には至っていない。火種を大きくしたに過ぎないという意見さえある。


2004.2.21
PRIDE 武士道を観る


 ミルコ・クロコップ対山本宣久戦は、ミルコの絶妙な指技(しわざ)が、試合を決めた。単調なKO決着となる直前、二度にわたってミルコの親指が山本の右眼を突いた。まさに、フィンガー・グローブの欠点が露呈した形なのだが、ミルコにしてみれば、このグローブの構造上の欠陥を利用しない手はないということになる。即ち、タックルに来る山本の顔面を突き放すように見せての指技こそ、打撃系の選手ならば、最も考え付き易いテクニックなのである。
 かつての伝統派空手の試合では、試合中、手を開くことは御法度で、度々繰り返せば「反則負け」なのであった。つまり、打突の最中に相手の眼を突くことの無いよう、安全面に配慮して、最低限のルールがあったのだ。
 しかし、今日では平気で手を開いている打撃系選手が目立つ。指技の存在を知らないからこそ、そういうことが互いに平気なのだなと思う。


2004.1.24
興行という名の大きな賭け

 「興行」内で行なわれた時、それは、いわゆる強いとか弱いとかの議論から外れてゆくのだ。それが宿命なのだ。
 「興行」として行なわれるいわゆる格闘技の中で、なにが「最強」かを云々するほど虚しいことはないということだ。


2004.1.1
大晦日の格闘技イベントについて

 この三大イベントのそれぞれの大トリは、テレビ観戦の時系列でいけば、まず、「INOKI−BOM−BYE」(猪木祭り4、神戸ウィングスタジアム、日本テレビ系)の藤田・メイフィールド戦。結果は、2R2分15秒、肩固めにて藤田快勝。対戦相手の選択に成功したということか。
 で、次が、「Dynamite」(ナゴヤドーム、TBS系)のボブ・サップ・曙戦。1R2分58秒、右ストレートにより、サップのKO勝ち。
 実は、戦前から私はこの試合の結末を確信していたのだった。サップが執拗なロー・キックを放ち、耐えきれなくなった曙がバランスを崩しながらも張り手を繰り出す。偶々それが見事に当たってサップ失神。即ち、サップの反則勝ち。こういうふうに予想していたのだが、見事に裏切られた。残念である。
 最後が「PRIDE」(さいたまスーパーアリーナ、フジテレビ系)の、桜庭和志・アントニオ・ホジェリオ・ノゲイラ戦。兄ホドリコは、知る人ぞ知る総合格闘技界のヘビー級王者。双子の弟、ホジェリオはミドル級の王者を目指す。ともあれ、桜庭は判定で敗れたのだった。打撃、グランドともにホジェリオが一枚上手であった。
 もともと瞬発力で劣る日本人にとって判定勝ちは最良の方法なのだが、判定まで持ちこんで勝ち切れないのは痛ましい。


2003.12.20
第31回全日本空手道選手権を観る

 
グローブとマウス・ピースを着けた新しくも異様な形を、近頃では疑うことも無しに伝統派空手ということになっているらしい。
 回し蹴りを多用し、残心の甘さが目立つそれは、本来の真の「前蹴り」が皆無であった。一発必倒の重い蹴りが見られないのだ。女子決勝に至っては、ストッピングに前足での半端な蹴りを、終始、その見苦しさにも全く気付かず出すしまつ。指導者か悪いのですね。しかし、なんと、その見苦しい技の所有者が優勝してしまったのですから、なにをかいわんや。
 オリンピックに参加しようと画策した時、今日の、余りに中途半端な空手が出来上がってしまったのです。日本固有の文化・伝統を守ることに力点を置いていればこんなことにはならなかった。国際社会に阿ることをしなかったなら、こんなにとにはならなかったと思うのです。
 暗く陰湿なもの、それが我国に潜む文化・伝統なのです。これはこれで、今日、結構大切ではないかと思う今日この頃であります。


2003.12.14
今年の大晦日は、ボブ・サップ対曙戦とか

 どうなるのでしょうかね。格闘技初心者としてデビューしたサップと、これまた大相撲という特殊世界出身者の曙。どちらも、総合格闘技の代名詞であるところの打撃技やら締める・極めるといった技とは無縁だった世界の人たちなのですね。そういう人たちの一戦が最大のイベントになってしまうところが何だかとても不思議な気がするのです。
 丁度、国益第一主義による哲学・思想の喪失こそが、憲法前文の解釈間違い、憲法違反であることに気付いていない事に酷似していますね。あの前文の国際協調とは、目先の私利私欲に走ってはならないということ、自国の利益を優先してはならないということを言っているんですね。にもかかわらず、国益という「欲」を振り回しているのが我が国総理・小泉さんなんです。
 困ったものです。サップと曙という両巨頭の戦いを企画した人物も、多分、思想・哲学も無く、また、格闘技を真には愛していないし、格闘技に真剣に打込んだことも無い人物に違いないのです。あれは真面目に格闘技を経験した人物が思い付く企画ではないのです。
 そういうわけで、こういう企画は誠に残念なのです。
 しかし、笑い話の種にはなりますので、恐らく、私も視聴者の一人になってしまう気がするわけで、実はまんまと、企画者の意図に嵌っています。


2003.11.10
第8回極真世界大会を観る

 先頃、全240名によるトーナメントを観た。約30年前に始まったオープン・トーナメント形式の極真カラテが漸くここにきて成熟したように思われた。というのも、試合の決着が蹴りではなく突き主体となり、しかも判定が多かったということである。
 つまり、あらゆる格闘技の行き付く先がこういうことになるのであって、どうしても素人受けする形とはかけ離れて行くということなのだ。
 しかし、故大山先生はそれで善しとしているのではないのかと思う。師の最大の功績は「明るく楽しく安全」なものとしての「カラテ」を普及したことなのだから。
 ただ、流石にハイ・キックは減少したものの、相変わらずロー・キックを何発も繰りだし、そして、中段への連突きをひっきりなしに入れながら「一撃」を標榜するのは如何なものか。「一撃」を排除するところに「明るく楽しく安全な」カラテが成立しているように思われるわけで、そろそろ正直なコメントが欲しいのだ。
 あのオープン・トーナメントが始まった頃、いわゆる伝統派空手の人々は決して少なくないだけの人間を、毎年、死亡させていた。稽古中の事故。また、指導に向かった外国での交通事故というのも良く聞いたが、実は道場破りとの死闘が日常的に繰り返されていたのだった。
 そういう殺伐としていた空手に一度は身を置き、そして、そういうことに嫌悪し、そこから一歩引いて、新しいカラテを創始した師の功績を改めて考えなくてはならないと思う。


2003.10.26
改めて格闘技とは、何か。

 時代が格闘技を必要としなくなったのではないかと考える。得物、道具を使った方が手っ取り早いということか。簡単に道具を手にする事件も多くなっているようで、実に悲しい。徒手空拳、即ち、素手であることの美学が失われてゆく。
 いわゆる近代化されて以来の弊害が叫ばれて久しいおり、素手であることこそ、動物としての本能が磨かれるのだということを、是非、再考願いたいと思うのだ。


2003.9.4
見失なわれてゆくもの
 
 真実がどんどんと歪められ、最早、何を支えにして良いのか分からない。
 しかし、実に世代格差と言うものはそんなものであって、何時の時代でも閉塞感はあったのだと考えるのが正しいのか。
 体力、知力が怪しくて、感覚が怪しくて、さて、何から手を着けたら良いのか、と。
 全ての出来事なり行ないは、全部が[遊び]なのであって、マジになっちゃあお仕舞いなのか。マジになっちゃあダサいのか。
 とりあえず、まず、ランジ、スクワット、ドンキーキックで下半身を鍛えるということか。


2003.7.29
幻想言語

 
言語がどんどん壊れていく。これまで、こんなスピードで、言葉が変化したことはあったのだろうか。と思い巡らせるうち、そうか、と。そうなのだ。言語が変化したのではなく、単に学力、一般教養が低下したということなのだ、と。その昔も、確かに若者は、大人が眉をしかめる言語を発しはしたが、正しい言語を了解していたものだった。正しい言語を知った上で、それらの言語との差別化のため、新しい若者言葉を用いていたのだった。
 しかし、今は、どうやらそれとは違う。彼ら、彼女等は、正しい言語を知ってはいない。文法さえ知らない。正しく自らの意思を伝えようとさえしていない。彼らにっては、自己主張など、とてもダサいことなのだ。きちんと自分の考え方を他者に伝えることなど、とても恐ろしいことなのだ。曖昧なこと、優柔不断なことこそが、他者にモテる条件でさえあるようだ。そう、他者に優しく映ることはモテるのだ。
 こうなってしまった責任は、何処にあるのか。そう、小、中、高生を持つ親の世代が、もう、いけない。極く極く一部の偏差値上位者とその他の子供たちとの格差が大きく開いてしまった結果、多くの親たちが、子供の学力での勝負をかなりの早い時期に放棄しているようなのだ。
 こうなったら、この機会に、日本語でのコミュニケーションを諦めて、英語に国語を変更してしまったらどうか。どうせ日本語など、きちんと喋れないのだから、カタコト英語から始めれば良いだけのことである。


2003.7.14
軍事力行使を前提とした国際間交渉


 国際協調違反、米朝枠組み合意違反を犯す北朝鮮に対する米国の対応は、日本人には、なかなか理解しがたいものであろう。
 何故か? それは、[話し合い]に対する日米の余りにも大きい、考え方の隔りである。
 とにかくも、12ヶ月から15ヶ月で話し合いは終結、そして、その決裂後は、先制攻撃である。で、一ヶ月とちょっとで武力制圧を完了させるというのが米国のシュミレーションなのであるが、この米国の[話し合い]というのは、所謂、日本流の「話せば解る」や、「和を以って貴しとなす」という趣旨とは大いに違う。米国の[話し合い]は、軍事力が前提でなくてはならないのだ。つまり、話し合いが不調の場合は、即刻、叩き潰すということが了解されていなければならないということだ。武力を伴わない[話し合い]など時間の浪費と考えるのが米国流なのだ。
 米国は待っている。韓国、日本を含む北朝鮮の周辺国が、それを認めるのを。逆に言えば、周辺国が北朝鮮に対する武力行使を容認するまで、米国は動けない。動かない。[話し合い]は始まらない。それでも、中国が北朝鮮を説得するなりしてカタを付ける可能性を残しているが、北が中国にさえ反旗を翻した時でさえ、当の中国は戦争を望まないのではないか。中国国境に難民が溢れるのは困るというのが本音なのだ。韓国にしたところで西ドイツの二の舞は困るし、ソウルに向けられているという実に一千に及ぶ大砲を、米国が一気に、ただ一つの撃ち損じも無くピンポイントで壊滅させてくれることを望むのは困難ではと思われる。首都に一千のうちの一発でも飛来したらどうするのか。そうなったら、統一後、旧北は勿論、旧韓国にも反米感情が一気に噴出することだろう。
 占領後、反米感情が消え失せてしまった日本人というのは数少ない例外中の例外だということを、そろそろ米国も感じている。イラクの反米感情の高まりは、米国にとって意外だったのであり、そのことが彼らに学習機能を与えたといって良い。
 そうなると、行き付く先が見えてくる。つまり、核兵器を廃棄させた後、統一させないというのが、当面の最善手ということであろうか。戦後復興に多大な援助というのは今の日本には辛いのだし、米国軍事産業、及び、その関係筋にとっても痛手なのだろう。


2003.7
K-1 世界一決定トーナメントを観る


 [K-1 WORLD MAX]なのだと言う。ともあれ、決勝戦となった魔裟斗vsクラウス戦を観た。2ラウンドに入ってその半ば、魔裟斗が、まず、左フックで引っ掻けて倒し、それから、一分を待たずに、今度はきっちりと渾身の左フックを当てた。
 今回の大会で゜目立ったのは、蹴りに対するカウンターのパンチであった。各選手、それが面白いように、悉く、決まっていた。
 ああ、やっぱり蹴りは通用しないな、と。蹴りよりパンチなのだ、と。今回は、そう確信した人は多かったのではないか。競技として成熟し、完成形に近付けば、蹴りは無くなってゆく。西洋にボクシングが定着した理由が解ったような気にもなるが、ちょっと待てよ、と。数十年前の、所謂、伝統派空手の試合も同様ではなかったか、と。その意味を改めて考えてみる必要があるように思われる。
 また、ボクシングの左フックが、最近、とみに決定打として注目されているのは、空手において、予てより、順突きが最強といわれていたことを考えると、これは、誠に興味深いのだ。
 つまり、前足側の拳での攻撃という事なのだが、体を割る日本流に対して、体を捩る西欧流ということなのだが、そこに共通項があるというのが何を意味しているか、それが問題となる。今後の課題として、ここでの即断は避けたいと思う。


2003.7
危ない社会


 社会生活が危なくなっている。失業率が高くなっていた折、大分、以前から、そういうことは予想できたことなのに、当局は何らの手も打つことなく今日に至ったということだ。長崎幼児誘拐殺人事件の犯人が中1、12歳の少年だったことを受け、福田官房長官の発した言葉が「社会の風潮への警鐘」として深刻に受け止め、そして、何らかの手を打たねばならないというものだった。いつものように、後手後手の反応なのであった。4歳男児を連れ出し、立体駐車場の屋上から突き落とすという、なんとも遣り切れない事件は、防犯カメラに校章はおろか名札まで映っていたというのだから、この少年にしてみれば、何らかのアピールの為の犯罪としか考えようがない。思うに、この少年もまた、殺されはしなかったものの、それに近い行為を加えられた経験の持ち主ではなかったか。少年は被害者として悶々としていたのではなかったか。で、そういう屈辱的経験の際に、何人も救ってくれなかったという苛立ちが爆発し、その結果が、更に弱者の幼児に向けられたということなのではないか。それにつけても、14歳未満は犯罪にならないという、被害者の親御さんにしては理不尽極まりない法律は何とかならないのかと思う。児童相談所から家庭裁判所、少年鑑別所、保護処分で一見落着というのでは被害者側は堪らない。
 それにしても狂っている。昨今の犯罪事件を見るにつけ、こりゃあ、どうにもならないなと思う。タガが完全に外れてしまっている。何が起っても不思議ではない状況だ。
 どうやら、その原因は、評価のシステムが変わったからではないかと思う。何しろ、対応が遅い。個人的な意志の力で行動するということにならないのだ。周囲の評価、査定を気にして、迅速に動けない。あらゆる事を投げ打ってでも、自分の信ずる道を歩むのだという事にならない。事勿れ主義が出世の早道になっているのは仕方ないとして、社会的な出世とは別な所に価値を見出すということが必要で、そういう教育がなされていないということが問題なのだ。殊に、大学レベルでの教育水準が地に落ちている。昔の高校レベルになっている。かつての大学レベルを望むには大学院に行かなくてはならない。教師と学生の関係がそうなのだ。


2002.12
昔のこと

 
当たり前の事ながら、世の中がどんどん変わってゆく。何処まで行ってしまうのだろうかと不安である。
 そうなのだ。もう、かつての古き良き時代の日本など絶対に帰って来ないという確信がある。自分の身は自分が守り、他人に頼ってはならないということ。悲しいけれど、そういう時代がいよいよやって来た。
 これからは、幼い頃(昭和20年代)良く親父に言われたことなんだけど、「手に職」だなとつくづく思ったりする。あの頃の地方には、サラリーマンの家庭というものが殆ど無くって、50人の一クラスに数人だったのではなかったか。で、当時の私は、そのサラリーマン家庭が羨ましくて仕方なかったのだった。家の手伝いをしないで遊んでいられる子というものに憧れていた。サラリーマン家庭の子はちょっと都会風で、そして、小奇麗でもあったのだ。でも、職人の倅は、いつも小汚くて、それが当たり前だった。そして、早くから一人で生きてゆく術を身に付けていたのだった。世の荒波をどう泳ぐかは、知った積りだった。が、世の中がサラリーマン化して、その後、その気楽さが蔓延してしまったから、もういけない。元に戻れない。団塊の世代前後の人々の事件が多発するような気がする。
 かつての一人で強く生きるという生き方を見せてくれた「父」の姿を思い起こす必要があるということか。


2001.3
大リーガーへの道

 前世紀の末、オリックスのイチローに次いで、阪神、新庄の大リーグ入りが報じられた。イチローの14臆円にも及んだポスティング・システム(入札制)も日本球界初のことであったが、それより、野手としての大リーガー入りは初めてとあって、それはそれで大いに盛りあがっているようではあった。
 だが、ここに問題があって、私の当初からの予想を先に言ってしまえば、新庄はともかくとして、イチローは、あちらでは無理だろうと思っていたのだった。
 というのも、勢いだけで振り抜くイチローのいかにもコントロールの利かないバット扱い、更には、体重の乗らない独特のバットスイングが気になって仕方ないのだ。あれでは、あちらの重いボールを外野まで運べないだろうと、当初から、私は見ていたのだった。また、あの思い切りが良さそうに見えるだけのスイングは、明らかに高めに弱点があるわけで、それが、気に入らない。かなり低い、あちらのストライクゾーンを承知の上で、なお、それは致命的でさえあると思われた。今年から高目に甘くなる、広くなるというのも不利な材料なのだ。
 そうなのだ。もともと、ああいうスイングは、中学までゴム球で野球をやってきた子供が、高校生になってから、重くて固い硬式球を外野まで飛ばそうという時、一時的に認められているものなのだ。そして、そう。その期間は早くて一週間、トロくても一ヶ月。それ以上かかる者は、野球に対して適性の無い者として部を追われる。だから、その昔は、ああいうバッティングをする者でレギュラーは皆無なのだった。
 因みに、ストライク・ゾーンが低いからこそ、あちらではアッパー気味のスイングが許されるわけで、こちらでは、上から叩くダウンスインクが所謂、レベルスイングとして認知されている。そう、高さだけでも、約10センチ、日本のほうが高かったのだ(今年からは、ほぼ同じか)。だからこそ、我国では、「求道的」なダウンスイングに徹していたのだ。右打者ならば、インコース高目、つまり、懐に食い込んで来るボールを強く、レフトに弾くことをイメージし、素振りに没頭する。ここを打てないことには、何も始まらないとさえ考える。

 3月11日の日曜日、BS11では、シアトル・マリナーズ対ミルウォーキー・ブリュワーズ戦が放送されていました。評判が悪かったと言いましょうか、あのイチローの構えに入る際の、相手投手にバットを向けるポーズは封印されていましたね。もともと高校野球の専売特許だったあのポーズは、あちらでは、投手を侮辱しているポーズと取られ、報復の危険球が来るぞと言われていましたからね。イチローといえども、それは必然的に避けなければならなかったんです。で、バットを投手に向けて上げるのではなく、自分の体の正面に上げる形に変えていましたね。視線も、バットの先端部に向けるという念の入れようでした。
 さて、試合の結果はマリナーズの大敗。イチローは、3打数2安打、1盗塁と言う結果を残したところで、途中交代しました。やはり、レフト側に流し打つことでしかヒットになりませんね。3打席目は、初球を引っ掻けてファースト・ゴロにしていました。2安打という結果を既に出していた場面ですから、真中のストレートを待って、それを強く叩くという挑戦をしてみて欲しかっただけに残念でした。外野手の頭を越さないことには、多分、本人も、野球が面白くなってきません。野球小僧というのは、そういうものなんです。
 任天堂が筆頭オーナーであるマリナーズであればこそ、イチローが早々に大リーグ不適合のレッテルを貼られてしまうとは考え難いだけに、もう少し、ハラを括ってやったらどうなんでしょうかね。

 さて、これに先駆けて、三月初めの日曜日、新庄がオープン戦ニ試合目にして、詰まりながらも初ヒットのニュース。これは紅白戦を含めて初ヒットなのであった。そのレフト前ヒットは、初打点を生み出してもいたのだった。
 で、ここで、注目したいのが、高めの外寄りをレフト前に運んだということ。バレンタイン監督も誉めていましたね。
 一方、イチローは、やっぱりいけません。ヒットは新庄より早くに出ていましたが、固いですね。あちらのサイズに近付こうと無理をしているんでしょう。体重が10キロ近く増えているのではないでしょうか。体が重いんです。スイングが変わっています。低目しか相変わらず打てません。両者ともに、まだ外野手の頭を超える打球はありません。中学生が高校生になって経験する状態を脱していません。体重を乗せて、体の正面でボールを捉えるという基本を知りません。ヒントは、レスリングのタックルに入る形なのですが、それが出来ていません。

 ともあれ、イッチー・ボールズ(痒い金玉)だの、シンジョー・ハックション(くしゃみ)だのと、可愛気のあるニックネームをチームメイトから頂戴して、二人とも大リーグにすっかり溶け込んでいるように見えるのは喜ばしい限りです。


2001.2
果たして、経済破綻。1,300円割れの株価。

 何の躊躇というものもなく、二月末、株価が一気に1,3000円(日経平均)を割り込んだ。ナスダックと連動してのことで゜あるが、三月危機とか言われ、1,3000円を割った時点で日本経済は破綻すると言っていた多くの専門家の指摘は何だったのか。何をか謂わんやである。
 やっぱり無能な策無し首相の森さんが一人悪いのでしょうか。しかし、あれだけバカだと、情けなさを通り越して、つい笑って許してしまいそうになるというのは、これは、森さんの人柄なのでしょうか。
 でも、やっぱり、自己認識の欠如と、ペンディング、即ち、各種問題の先送りが一番の問題なのでしょうね。不良債権問題などはその最たるもので、自らハッキリと損を認め、それを世間に対して明確にするということを先に延ばしているんです。回収の当ての無い債権を、もしかしたら取れるものと思っている訳です。あるいは、それを夢見ているんです。まるで出来ない事柄なのに、奇跡をまっているんです。ですから、景気が底を打たない。底を打たないから、土地の値段が回復せず、ズルズルとまだまだ下がって行くのですね。因みに、土地の価格というものは、一度、底を打たない限り回復しないと言うのは、殆ど常識なんです。底を打ってから回復基調に転ずるのです。
 この調子だと益々景気は悪化します。どうやら、私の見るところ、自民党・労働組合・建設と流通業界の、この三つがガンなんです。利権誘導に凝り固まってしまった保守政党の解体、自らの立場ばかりに固執する労働組合の改革、全てに亙って過剰な建設と流通。この三つが縮小されることでしか、日本経済は立ち直れないのではないかと考えます。自民党はもう不要です。その役目は終わっています。労働組合は、もっと広い視野に立って物事を決するという手法を確立すべきでしょう。自分たちの目先の利害ばかりに囚われていては、正しい選択は出来ません。IT革命の疎外者としての汚名を後に残したくはないでしょう。最期に、建設・流通業界は再編成して、最終的にはニ、三の会社に絞ってしまうんだということを誰かが断言すれば良いのです。その他の小さな足腰の弱い企業には、悪いけれども潰れて貰うよと言えば良いのです。一旦、吸収合併されることで溢れる労働者達ですが、戻ってきた暁には、スケール・メリットが生かされて企業収益が増大していますから、当然に給料もあがることでしょう。
 そこで、万事目出度しとなる筈なのですがね。
 


2001.1
新世紀に向けて

 新世紀です。強いカラダと、柔らかなココロの獲得が、新しい世紀のテーマになります。そういう確信があります。「生きる力」を獲得させよとは、文部省が各教育機関に発した通達ですが、これはこれで大いに正しいとも思うのです。
 というのも、多様性を互いに認め合うとは、即ち、「他者」の再認識のことなのでありまして、勿論、そういうものを獲得するには、まず、「自我」の確立が前提となっています。「他者」の多様性を認めることで、人は、様々な生き方を自信を持ってチョイスできるわけなのです。大手企業に入って安定収入を得ようと言うのも結構です。収入はともかくとして、自分は趣味に生きるんだというのも結構なのです。人は、大企業に入れば、とりあえず生きてゆけることでしょう。ですから、大企業に入るために勉学に励むことは、「生きる力」を得る道として正しいということになります。一方、逆に、例えば、人は絵を描くこと、または、音楽を楽しむことをココロの支えに、どんな仕事に就いていようとも強く生きられます。ですから、勉強そっちのけで、他に熱中するものがあるというのも正しいということになります。両方とも、決して妨げてはならないのです。「個性」尊重の教育とは、そういうものでなくてはなりません。従って、「読み、書き、ソロバン」だけの教育機関があって然るべきなのです。社会科も理科もやらない学校があって良いのです。そういう義務教育があって良いと思うのです。もっと言えば、「義務」で教育するのも、されるのも止めたら良いんです。
 そう。明治23年発布の「教育勅語」は、「祖先の遺風を顕彰」し、「其徳を一にせんこと」を目標とし、天皇と国民の一体化が狙いでした。宗教的色彩はそこにはなく、あくまでも、天皇が源であり、主体であるとするものでした。これが、70年もの永きにわって、終戦後まで続きます。戦後です。やっと、教育現場での男女平等が実現したのでした。この「教育基本法」は、しかし、出身大学による階層配分を生み出して行くことになるのでした。
 多様な時代とは何か、改めて、皆で良く考えようではありませんか。
 ヒントは、あります。
 例えば、賢治の詩です。
 その詩は、原本どおりに復刻されて、何処かの土産品屋で安価に売られています。
 そんなところが、如何にも良いと私は思うのですが、どうでしょうか。

    雨ニモマケズ
    風ニモマケズ
    雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
    丈夫ナカラダヲモチ
    慾ハナク
    決シテ怒ラズ
    イツモシヅカニワラッテヰル
    一日ニ玄米四合ト
    味噌ト少しシノ野菜ヲタベ
    アラユルコトヲ
    ジブンヲカンジヨウニ入レズニ
    ヨクミキキシワカリ
    ソシテワスレズ
    野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
    小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
    東ニ病気ノコドモアレバ
    行ツテ看病シテヤリ
    西ニツカレタ母アレバ
    行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
    南ニ死ニサウナ人アレバ
    行ツテコハガラナクテモイイトイヒ
    北ニケンクワヤソショウガアレバ
    ツマラナイカラヤメロトイヒ
    ヒデリノトキハナミダヲナガシ
    サムサノナツハオロオロアルキ
    ミンナニデクノボートヨバレ
    ホメラレモセズ
    クニモサレズ
    サウイフモノニ
    ワタシハナリタイ
          賢治